「あの時計、まだ持ってる?」
  「あるよ」
  信自はポケットに手を入れると、一つの時計を取り出した。
  なんの変哲も無い懐中時計。蓋を開けてみると、長針と短針が2本ずつ入ってる。
  だが、どちらも動いてはいない。
  「止まってるな」
  「うん、あの日からずっと止まってる」

  ―私の名前はクロス=ガーゼルです

  目を閉じれば、懐かしい声が聞こえる。

  ―信自ですかぁ、いい名前ですね

  ただ一人、自分の名前を褒めてくれた。
  途中、信自を陥れようとしたけれど、最後には自分を庇ってくれた。

  ―結局、悪い人にはなれなかったなぁ…

  そう言って苦笑いした、あの顔をまだ憶えてる。
  信自は、時計を握り締めた。
 「忘れちゃいけないんだ」
 「ん?」
 「きっと、忘れちゃいけないことなんだ」
 楽しいこともあった。クロスと共に『時』を旅して、いろいろな人に会えた。
 もちろん、楽しいことばかりではなかったし、忘れてしまいたいこともあった。
 でも、きっと忘れてはいけないこと。
 「そうしてかは分からないけど…」
 そんな気がするんだと、そういう信自に息一つ吐くと、そうかとだけ言って彰は笑った。
 その後に、お前らしいよ言葉が続くのだが、それは彼の表情が物語っていた。
 「本当に送っていかなくていいのか?」
 「あぁ、この辺の地理は大体分かるし」
 あの後二人の話は盛り上がり、彰の弟が声をかけに来たときにはあたりは暗く
 なっていた。信自は、兄弟から夕食の誘いも受けたもののさすがに悪いだろうと断った。
 「じゃあ、また遊びに来いよ」
 「さようなら」
 兄弟に見送られ、信自は月下家を後にした。月下というのは、兄弟の苗字である。
 「月下かぁ…」
 孤児院時代には苗字など無かったので、少し違和感がある。
 あれがあいつの苗字なのかとぼやきつつ、信自は月明かりの下を歩いていった。

 

  一方、月下家では―
 「静かな人だったなぁ、あの人」
 夕食を食べつつ、本日の来客の感想をもらしたのは弟の暁。そして、兄の方に眼を向けと。

 「へぇ、あいつこんなもん書いてたのか。結構面白いな…」
 そこには食事をしながら本を読む兄の姿があった。

 この後、兄をしかる弟の姿があったことは言うまでもないだろう。
 食事時に、読書をするのはよしましょう。

                            Fin


  
  
  
  
  
  
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